昭和45年12月17日 朝の御理解



 御神訓 一、「神は声もなし形も見えず疑がわば限りなし。恐るべし疑いを去れよ。」
 信心は神様の声もなしと仰せられる。ない声を聞くことであり、姿も見えずと仰せられるけれど、そのない姿を見ることである。そこから確信が生まれてくる。そこで例えば、合楽で皆さん、信心の稽古をなさっておられる方達の場合は、色々な意味でその点その入り口の所をですね、なるほど、神様じゃあなあと言うようなところに、いつもいわゆる神様を疑う訳にはいけないと言うところにあると思うのです。
 例えば、今度の、幹三郎のことでも、奇跡的なおかげをいただいたという事実もさる事ながら、例えていうと、何故かというと、その前から、私がずっと言うとったことの通りになったからです。これは、私が、幹三郎に言うて聞かせておる事でも、そうです。それを、今、幹三郎が、こう、振り返って、あの時お父さんが、ああ言いなさった。本当に言いなさった通りになったという事になるのですからね。
 友達がみんな旅行へ参りました。旅行のお土産に、久富勇さんの所の長男の正治さんが、同級ですからお土産を買って来た。もう病院に行く事が決定してからでありましたからそれを開かせて頂いたら、小さい机の上に飾る置物であった。それが富士山をバックにした松がこうあってそこに昔の籠かきです、籠を担いで行きよる所じゃった。その大きな百姓家で、麦わら家が大きな家があって、そこには大きな水車がこうやって回って、水車がこうこやって回る様に出来ておると言う様な置き物であった。
 だから、丁度、月次祭の日に、その置き物が来ましたから、それを今度はね病院に行くけれどもこう言うようなことなのだから、一つも心配はいらんよと。第一おまえは富士山がバックだものね。その富士山そのものは、いわゆる合楽がバックだもの。いうならば神様がバックなんだもの。あんたが例えば行く行かんは、言わんでも強引にこの籠で送られるようなもんだ病院に。けれどもねここにこう言う大きな水車がついとろうが。この水車はねこれが回っておる限り、必ずいわゆる精白をする製粉をする。
 そういう働きをするんだ。そこでいわゆるままになるおかげが、いわゆる頂けるんだというような事を、私が入院を前に。まぁそれだけじゃあありません。色々、あれはただ、診察に行くという時でも、そうでした。ここに母子で出て参りましてから、安心ムードで行けよ、心配はいらん。安心ムードで。今、お父さんが紫いっぱいのお知らせを頂いたから。紫と言うことは、安心とおっしゃるから、心配はいらんよ。と、言うようにですね、やはり、その時でも、そう言ってましたですね。
 帰ってまいりましてから、富永さんと一緒に帰って参りました。どうだったかと。そしたら「こわかったぁ」と。えすかったち言う訳ですね、初めての病院に行って。けれども、その時に出掛けにお父さんが言うておられた、紫ムードだぞといわば安心ムードで行くのだぞと、言われておった事を思い出したら、心が落ち着いて安心ができたという事を言うております。
 様にね例えばそういう風に、例えば私が言うておることが、幹三郎のなら幹三郎の今度の病気と言うことの上に於いても、その通りになった訳です。病院に行く何日か前に、三福を一福にして大福茶というお知らせを頂いた。医者は手遅れと言うけれど、手遅れじゃない。富永先生に、私が、言うたように、「もう一番いい時ですよ」と私が申しました。それを聞かれて、富永先生、もうびっくりされてから。
 まぁ親先生が言いよりなさるけん、どう言いようもない、と言っておられましたという事ですけれども。ところが、実際は、本当に、三福を一福にしたように、一所に固まってしまい、集まってしまい、他の事情までが、そこに一つに集まってしまっておるというような、成る程、一福にして大福茶であるというようにですね。例えば、そのようにして、例えば、合楽の場合は、信じない者でも、信じん訳にはいけないような、いわば教導をを受けておる訳なんです。
 ですからこの点は見易い訳です。ところがなんですよ。だから難しいという事は、それとは反対の事になること。先生が言うておられる、言われた事の反対になった時なんです。例えばこの前の前にやれ痛やと言う心で有難し、今みかげをという心になれよと言った様なです。どんなに考えたって、痛いことを有難いと思えと言われても、思えないです。けれどもその訳を聞くその真意を分からせて貰い、悟らせて貰うところから、痛いけれども有難いと言うような心が湧いてくるのであって、その辺が難しい。
 親先生のおっしゃる通りのことになるから、成る程、親先生の言われる通りにしとけばいいんだと。そういうところから、頂けれる神様は、私は、もろいと思うね。例えば、そんなら、幹三郎の事にしてもそうです。幹三郎が、例えば、今度の病気で頂いた体験、これは素晴らしい事である。もう一生のこれが宝であろう。けれどもそんなら今後、幹三郎の上に、そのように先生が言わっしゃった通りの事になってくるとか、なった言う様なおかげが約束されてる訳じゃないです。
 恐らくは、右と願っても左、左と願っても右と言ったような事柄の中に、神の声を聞こうとするのだから難しい。そういう中に、神の姿を見ろうとするのであるから難しい。だから、私どもは、その難しい、そこに取り組まなければ本当の信心は分からんのです。そこに取り組ませて頂いて、初めて、やれ痛やと、痛い時でも、成る程、痛いことは痛いけれども、有難いというものが頂けてくる。もう、そこには、疑う余地もないという、心境が開けてくる。
 だから、皆さんが合楽で、例えば、ここで、日々起きておることが、神様ちゃ間違いがないなと言うたり、思うたりしておる間はね、それは、まぁだ非常に、もろい神様なんです。いつ消えるやら、いつ無くなるやら分からん信心、そういう信心は。けれども、右と願って左、左と願っても右といったような中にね、神の声を聞こうとする事なんです、信心とは。そこに、神の姿を見る事の出来れる、いわゆる、見神と言うですね。見神することのできる信心。
 だから、そういう信心を頂かせて頂くという事には、どのような信心をさせて頂いたら良いかと。いわゆる、本当に声の無い声を聞く「信心するものは肉眼を置いて、心眼を開け」と、その心眼を開かせていただくことが難しいのである。そこで、その心眼を開くことの為には、お互い、どういう精進させて頂いたら良いかという事になるのです。昨日午後の奉仕をさせて頂いておる時に、末永さんがお届けに参りました。
 松本と書いてある。松本とは誰かと言うて聞いた。名前が分からん。先ほど、電話がかかって参りました、もう、三、四年前に参って見えて、宮の陣から、松本さんという人が参ってみえてました。その人の娘さんから電話がかかってました。そして、どういう事を言われるかと言うと、自分が合楽の信心を止めた理由を話された。それは、自分がお夢を頂いた。そのお夢を頂いて止めたんだ。
 どういうお夢であったかというとね、合楽で、ああして説かれておる教えというものは、いうなら、素晴らしい金光大神の御教えを、いよいよ深く、広く教えて下さるという事は、確かに事実だという事。それを、例えて言うと、布団の、掛け布団のようなものだと。そういうお知らせであったと。ところがね、合楽の場合は、敷布団、これがいけない。敷布団というのは、死期を意味する。死ぬる時期と言う。だから、合楽で信心しよったら、誰でん死んでしまう。そういう事であった。
 だから、ああたの所の親先生に言うて下さいち。どうぞ、一日も早く改心しなさるように言うて下さいということだった。教えそのものは、成る程素晴らしい、けれども、合楽の先生は、信者を殺しなさる。ああた達も殺される先に用心しなさいよ、という訳なんです。そこで、私は、思わせて頂いたんですけれども、なるほど、その通りだと、私も思います。けれども、お知らせを頂いて、勘違いをして頂くと、そのような事になってくる訳ですよね。
 これは一生涯私は、その人を殺す事に努め抜く事であろう。そのことに精進しておると言うても過言ではない。その人をやはり本当に殺すという事はね、どのような事かどういう意味を持っておるものか。我情我欲を離れて、真の大道を開き見よ。我が身は神徳の中に生かされてありと。神徳の中に生かされてあるんだと。そういう事実をね、その実感を、皆さんに味おうてもらう為には、どうしても皆さんの我情我欲を取りはずさせて頂く事に、私が精進し、努めて教導しなければならないという事です。
 我情我欲を取るという事という事は、どういう事かというと、皆さんを一応ですね、空しゅうして行かなければならない。己を空しゅうするという事を説くのです。自分の我が無い欲が無い。自分という者を空しゅうする。例えば私の前にどんなことでも、親先生任せになりますと言う人は、もう私の前に殺されておる人です。例え皆さんが御神意を頂かれる。右にしようか、左にしようかと思われる。
 お伺いをして親先生がおっしゃる通りにすると言う時には、もうあなたはその事だけでは、あなた自身が空しゅうなっておられる時である。自分の我情我欲というものを出していない時なんです。しかもそれがお伺いする時だけではない。いつもがねいわゆる神様に任せきった信心生活、そういう生活を願っておるのである。素晴らしい教えを頂く、そして、例えば自分を殺せ自分を空しゅうせよと教えられる。
 そこでここではですそこんところがです、生殺しのように、半死半生でおられる方が沢山あるという事です。それを捕まえておいては、そこのところを捨てなければ、おかげにならん。そこんところを捨てなければ、我が身は神徳の中にあるという実感は湧いてこない。どんな素晴らしい話でも、話を聞いただけでは、合点がいっても実際自分の身と心で体験しなければ出来ない。ためにはそういう事になる。神様が私に一番厳しく教えられておる事は、これは私に教えておられる事は、こんなことですね。
 もう昔の話ですけれど、「死んだ気で励め努めよ徳もつく人も助かる、道も開ける。」というお歌でした。もうこれは私がどうにもこうにも、八方塞がりと言う様な時にです、どうしようもない時に頂いたんです。その時に、死んだ気になれと仰った。なるほど死んだ気になりゃ、もう痛いも痒いもない訳です。そういう死んだ気で、例えば励まにゃいかんのである。つとめなければならんのである。もう死んだ気で、じっと布団の中で寝とけという事じゃないのです。神様任せという事はそうなんです。
 昨日も、ある方が、人間の本当の生き方き方という事についてお話をさせて頂いた時に、只、神様任せ、神様任せちゃ、余りにも無気力だ。人間として、それではあんまりだ、という意味の事を言われたけれども。その内容は、任せるという事は、死んだ気で任せるのである。しかも、励み努めなければならんのである。いわゆる、忠実にあらねばならない、正直にあらなければならない。
 いわゆる実意丁寧の限りを尽くさなければならない。死んだ気でそこにです徳がつくのである。その徳にです人も助かるだけではない、道が開けてくるのだと。そういうおかげを受ける。言うならそれはもう二十年も前の話ですけれども、その通りの事に段々なってきたという事である。昨日古谷さんから、片岡仁左衛門が、色紙絵を描いておる。その絵に賛を書けと言うて、夕べここへ持って見えられた。
 だから私はこういうことを書いた。「身を縮め心を削り、人の世のため」と書いた。ローソクが、一本こう書いてある。ローソクが、明々と燃えておるところを書いてある。やはり身を縮める。ローソクは身を縮めて行く。いわゆる、心を削る改まっていく、磨いていくという事である。本気で改まるという事も磨くいうこともね、それは自分の為でなく、人の世のためなのである。
 もう一枚色紙が残ったから、今日御神前で頂いた事を、それを書かせて頂こうと思った。それと同じことなんですけれどもね「身を縮め心を削り 人の世の光ともなれ 己忘れて」と、これをもう一枚の色紙に書いて差し上げようと思っております。そこにはこういう尊い事になってくるのです。人の世の光ともならして頂こうという心なんです。世のお役に立たせて頂きたいと言うのは、そういう事だと思った。
 人の世の光ともなれ、為には己を忘れる。自分の事は忘れて、励めと言うのである。例えば、ただいま、申しましたようなですね。そういう内容が、信心修行の内容としてなってまいりませんとです、神の声を聞くことは出来ません。神の無い声を聞くことは出来ません。無い姿を見る事も出来ません。松本さんが、昨日、電話をかけて、親先生に改心しなさいと。改心されるように言うてくれとこう言う。
 勿論改心をするという事においては、もう限りが無い。これはもういつもそれこそ負うた子にでも教えられる。例えば昨日の御理解じゃないけれども、こうして教えてはおってもです、習わして頂く心で、いうなら教えておる。だからそれは言われずともです。もうそれこそ一生涯改まりに改まっていく事に、私は精進する事であろう。合楽の場合、掛け布団は素晴らしい。けれどもね、その敷布団が困る。
 敷布団はあちらの先生は、とにかく、信者を殺しなさる。だから、そこんところをですね、それこそ、祈り殺すという訳でもありますまいし、剣やつるぎで刺し殺す訳でもない。ただ、殺しておる事に努めておるという事はです。みんなの我情我欲を外させてい頂だけれるという事。それは、自分を空しゅうするという事。自分自身を空しゅうするという事。その為にはです、ちった人が笑うようなところでも、通らせてもらわなければ、自分を空しゅうすると言った様な事にはならない。
 そういう修行がです、楽しゅう出来るというところにです、例えば今の詠がある訳です。世の光ともなろうと。それやっぱりね死んだ気でと言う様な、修行をさせて貰う時には、本当に死んだ気で修行をさせて貰うなら、それこそ言うこともいらん、思う事も要らんと言うような事になってくるんですね。私がそういう気で一生懸命の修行の時ですよ。宅祭にやらして頂いたら、先生がおうどんが好きだからと言うて、もう一生懸命そこの村の方達が、信者さん達が集まって美味しい。
 まあ当時真っ白いうどんと言うても珍しいようなうどんを入れて、しかもそれには蒲鉾、竹輪、色んな具をいっぱい入れて、私に喜んでもらおうと言うので、出来とった。私が行ったら、すぐ、先生、熱いおうどんを、どうぞ召し上がれというて持ってみえた。それで、こうやって、蓋をあけて頂きだしたら、成る程、美味しそうですけれども、どっこい、スメが入ってない。
 「これはスメがはいっとらんのじゃ」と言おうと思うたけれども、まあまあ、待て待て、こっちは死んだ気でじゃけんで、お位牌さんがものを言わっしゃるはずはないと思うてから、黙って食べてしもうた。そしたら、勝手の方でびっくりしござる、あらぁあんた、今んとはスメ入っとらじゃったよち。もう食べてしもうてからのことじゃった。これはどうもすいませんち言う訳でしたけれど、それが御理解でした。
 今、私は、死んだ気での修行をしょるけんで、そげん、あんた、仏様がスメが入っとらんぞなんてんち、言わっしゃるはずがなかけんで、言わじゃったたいと。いうならば、馬鹿のような修行でも、やっぱ、させて頂だかにゃならん。だから、そこんところが、体得出来ればです。それは、言うてもええですよね。生神様になるから言うたっちゃええ。これはスメが入っとらんばい、と言うてもええ訳なんですけれどもです。可笑しいようですけれども、やはり、死んだ気というような事は、そんなような事でもある
 私どもが、いわば、気の利いた事を言うておるわけですね。世のお役に立ちたい、どげんして立つか。今こそ、もうそれこそ、混沌とした世の中、もう世の中は真っ暗と言うても良いぐらいな世の中に、どげんしてお役に立つか。そんなら、自分自身が力を受けなければならない。力は信なり、信は光なり、自分自身が光を頂かなければ、どうして世を少しでも明るくする事が出来るか。どんなに素晴らしい政治家が生まれても、決して、世の中を明るくする事はできない。信心より他に明るくする手立てはない。
 そこで、信心する者がです、いうなら、健気にも世のお役に立ちたい、いや、立たせて下さいという願いを持つ。そういう願いを持ってです。そんなら、願っておる事を具体的にです、いわゆる、具現して行く為には、どういうあり方にならして頂いたら良いかと言うことになると、死んだ気で励め。死んだ気でと言うことは、一生懸命になれという事である。それはどういう事になるかと言うと、いわゆる、身を縮め、心を削りである。自分自身の身を縮め、自分自身の心を削り、日々、信心は改まっていく事。
 本心の玉を研いていく事に焦点を置く。そこからね、ほのぼのと、心の中に光が射してくる、与えられる。その光に照らし出される自分というものが、また分かってくる。今まで気がつかなかったところが、いよいよ改まらなければならない事が分かってくる。心の光が、大きくなれば大きくなるほど、自分の心の隅々までが分かって来る。また、改まら無ければならん。改まるから、また、力がつく。また、光が大きくなる。また、自分の隅々のところまでが分かってくる。
 しかも、そうして改まっていく内に、そういう光がです、今度は、その周囲の人達までが、その光に潤う事が出来るようになってくる。楽しいことである。こんなに尊い事はないという事が分かって来る。ここで、皆さんが信心の稽古をさせて頂いて、ああ、本当に間違いがないなぁと、親先生が言いなさった通り、そうじゃった、ああじゃったと。これで神様を疑う人はないだろう。なるほど、神様じゃなぁという事が分かるだろう。けども、そういう神様では、もろいというのである。
 自分自身の、信・光・力・というもので分からせて頂く神様。そういう神様を頂く為に、私共は、一つ、死んだ気で励めという事。死んだ気でと言うことは、私は、そういう修行をしていいと思うですよ。死んだ気じゃけん、どげん不満であっても、それを言わん。それこそ、うどんの中にスメが入っとらんでん、もうこれには、スメん入っとらんと言わんと言うぐらいなね。
 偏屈なようですけれども、そういう修行もまた有難いと思う。私はそういう信心修行に取り組ませて頂くという事がですね、信心の本当は楽しみになってこなければならない。人が助かることなら、自分の事は忘れてしまう程しの事になってこなければならない。神は声もなし形も見えず疑えば限りがない、なるほど疑えば限りがない。けれどもね疑うておっては、恐るべし恐るべしち言うことになるのであるから。それを信じさせて頂く修行こそ、本当は信心修行であるという事。
 そこに肉眼をおいての心眼も開けて来る事であろう。やれ痛や今みかげをとお礼を申し上げれる心も、自ずと定まって来る事であろう。自分だけの有難い勿体無いじゃない。人の世の上にも、光を投げる事の尊さが分かって来る。その辺から己を忘れての言わば生活。金光様の信心の有難いのは、どんなに自分を犠牲にしよう、自分を空しゅう己を忘れてと言うておっても、神様の方が絶対忘れらなさらんのである。
 こっちが忘れとったっちゃ、神様の方が、ちゃんと、先回りしておかげを下さるのが。金光様のご信心なのである。そういうおかげも、勿論、伴うて行くのが、金光様のご信心。いよいよ、神様の、いわば、声も無しとおっしゃる、ない声を聞かせて頂くおかげを頂く為にも、いわば身を縮め、心を削り、人の世の光ともなれ 己忘れてというような尊い信心生活が出きる様なおかげを頂きたいものですね。
   どうぞ。